辻本好子のうちでのこづち

No.174

(会報誌 2009年9月15日号 No.229 掲載)

批判も覚悟で発言した「覚悟」

 いま私は、厚生労働省の検討会で口にした「覚悟」という言葉に捉われて悶々としています。

慢性疾患を見直す検討会

 「慢性疾患対策の更なる充実に向けた検討会」は、当初から3回だけの開催予定ということで召集されました。こんな重要な問題なのに……なんとも腰の引けた姿勢かと、会議開催以前から抑えきれない苛立ちを感じていました。
 その昔、慢性疾患といえば、糖尿病、高血圧、心疾患、脳血管疾患など極めて幅広い種類の病気で、いまはがんも同じ類(たぐい)に位置づけられています。国民医療費の約3割、死亡数割合では約6割を占める国民病。12年前に生活習慣病と呼び名も改められ、加齢とともに自らの生活習慣にも原因があって陥った、治りにくい、治らない病気とされ、いまも多くの人々が持病とともに生きる生活を余儀なくされています。
 そうした慢性疾患のなかでも、とくに<筋骨格系および結合組織の疾患>(専門的な言い回しで、ごめんなさい)に位置づけられる「慢性閉塞性肺疾患」は、現在40歳以上の日本人の約530万人が抱え、死因の10位に挙げられています。原因もわからず、治療方法もなく、日々、激しい息切れや咳などの苦しみを抱えた患者をどう支えるか、長い人生の生活の質(QOL)の低下を少しでも食い止めるためにどうするかが課題ですが、国はほとんど何の対策も講じてきませんでした。そうした反省も盛り込んで、慢性疾患の医療対策の今後を検討する会議だったのです。

忘れ去られている気がする“覚悟”

 検討会の初日、健康局局長から「これまで日の当たってこなかった疾病分野にも光を当てたい」と挨拶があり、小さな光明を見出す気持ちで期待を膨らませました。しかし一方で、たった3回の議論で何を語り、どんな方向性を探り、どのようにまとめようというのだろうか、といぶかしく思う気持ちも抑え切れませんでした。臨席する委員にそっと、素朴な疑問を投げかけると、どうやら秋以降の国会で今後の対策の予算を獲得するために大枠をまとめる作業が目的の検討会らしいことがわかりました。政権交代したので、どうなることやら……。
 最終回、検討概要をまとめる議論のなかで、「患者、国民は、(慢性疾患が)完治は無理と承知はしていても、どこかで国が何とかしてくれる、医療が何とかしてくれるはず、という漠然とした期待を捨てきれずにいる。しかし、医療経済の困窮もさることながら、治せない、治らないという医療の限界と不確実性が解決できていないなかで、いまこそ国も医療現場も患者も厳しい現実を共通認識として同じ座標軸に立ち、そのうえで社会全体で支える仕組みづくりが必要」という趣旨の発言をしました。そのときに「ある種の患者の覚悟が必要」という言葉を口にしたのです。その言葉が、多くの苦しみや悩みを抱えた患者さんにとってどれほど厳しく、鞭打つ表現であるかは重々承知のうえでもありました。
 患者の立場からの発言に「覚悟」という言葉が出たことで、座長も少なからず驚かれた様子。「患者から、国、地方自治体、医療の責任を問う言葉は聞くが、覚悟は聞いたことがない。少し厳しいようにも思うので妥当な言葉を考えていただきたい」と、とりなしの提案。そこで「納得」に置き換えることを提案し、最終的には『患者においては、医療の限界や不確実性を納得した上で安心して支援が受けられるよう慢性疾患対策の更なる充実を図っていくこともひとつの方法』というくだりが報告書に盛り込まれました。
 後日、検討会を傍聴していた患者団体の代表の方からブログで、「傍聴席で覚悟という言葉を聞いてぎょっとした。……慢性疾患でイメージする疾患はかなり幅広く、統一した場で議論することはかくも難しい。覚悟を納得と言い替える追加説明があったが、難病患者を念頭に置けば、すでにさまざまな覚悟を強いられているわけで、弱者に鞭打つような気がする」と厳しい批判を賜りました。
 たしかに、おっしゃるとおりだと思います。覚悟とは極めて自発的な意志であり、他人から強要されるものでもありませんから。
 でも、死に向かって日々を生き、抗うことのできない老い、望むはずのない病、そして、どんなに愛していようとも避けられない永遠の別れなど、多くの電話相談が、身近な友人知人が教えてくれる四苦。だれもが抱える人生の課題に立ち向かうなかで、私たちはいま「ある種の覚悟」を忘れてしまってはいないか。最近、そんなことばかり考えていたこともあって、批判も覚悟のうえで選んだ言葉でした。
 「覚悟」にせよ「納得」にせよ、患者の気持ちがそこに至るには、どのようなプロセスを辿ったかが重要なポイントです。とくに慢性疾患においては、たとえば医療者が「治すことはできない」と、ある種の覚悟をもって患者と向き合えば、患者の依存や不信を生みだすことはないでしょう。そして、患者も「治してはもらえない」というある種の覚悟をもつことで、誰かが何とかしてくれるはず……という受け身と依存の“呪縛”から抜け出せるのではないでしょうか。
 20年前、COMLを立ちあげたころは、インフォームド・コンセントというキーワードを耳にした医療者の多くが「それって何?」という時代でした。COMLの旗を振る私が口にすると、医療者から「生意気!」と冷ややかな目を向けられたものです。20年経ったいま、たしかに医療現場は変わりました。ただ、説明書や同意書など形式を整えることに汲々としてきたばかりに、互いに「ある種の覚悟」という大切なものをどこかに置き忘れてきてしまったように思います。
 政権交代したいま、改めて私たちは、あらゆる場面の「ある種の覚悟」を考えてみませんか?