辻本好子のうちでのこづち

No.173

(会報誌 2009年8月15日号 No.228 掲載)

大切な友人が遺した宿題

 それは、あまりにも突然な友との別れでした。

突然届いた訃報

 7月2日、1週間ぶりに帰宅すると2枚のFAX受信記録。印刷したところ“訃報”の二文字。つづいて目に飛び込んだのは、思いがけない大切な友の名前。しかも、告別式はすでに“昨日”終わっています。いったい何かあったのか、事情も状況もわからぬまま2枚目のFAXに目を通すと、「突然のお知らせになってしまい、すみません」という娘さんからの悲痛なメッセージだったのです。
 昨年9月に子宮がんが見つかり、10月末の手術で複数の腸転移が認められ、本人も精一杯がんばった抗がん剤治療の8ヵ月後の悲しい結末……。死に至る簡単な経緯が記されたあとに、「大切な友人には知らせて欲しいという本人の強い想いもあり、告別式(本人はお別れ会といっていました)に出席していただけましたら喜んでくれると思いまして……」。そして、最後に娘さんの携帯電話の番号が書き添えてあり、取るものもとりあえず抑えきれない動揺のままに電話をかけました。

長年のCOMLの応援団

 SさんはCOMLを立ちあげる以前からの古い友人で、女性には珍しいほど潔い、さっぱりした気性のキャリアウーマン。趣味のバイクのツーリングで行った美術館に感動したという便りにも孫の話題がチラホラ。定年退職後の日常をどう過ごしているのか、ゆっくり聞いてみたいと思っていた矢先でした。「自称応援団」というCOML会員、毎月のニューズレターで私の動向を確認し、的確なひとことがときどきメールに届いていました。なにより、事務所の話題になっていたのは、毎年7月半ばに欠かさず届く手づくりの梅エキス。「夏バテ対策、希釈して飲んで暑さを乗り切って!」という思いやり、遠くから見守ってくれている姉のような存在でした。
 私が乳がんを患ったときも、早々に手製の小さなクッションが届きました。「ガンバレよしこ」と刺繍のメッセージ、リンパ浮腫予防の可愛い腕枕でした。いまも毎日、手術した側の腕の下に置いて愛用。また、突然サボテンの鉢が届き「私の元気パワーのお裾分け!あなたのがんをやっつけるパワーです!」にはビックリさせられました。もちろん、いまもベランダで見事に増殖しています。手術翌年のCOMLフォーラムにも名古屋から駆けつけ、山口を会場の隅に手招きして「支えてくれて、ありがとう!」と目に涙をためてかけてくれた言葉、山口にとっても忘れられない思い出のよう。そういえば梅エキスも、乳がんを患った年から倍の量になり、さり気なく案ずる気持ちを届けてくれる優しさに、いつも感謝していました。
 そうした数々の優しさを届けてくれた彼女の訃報を知ったとき、恥ずかしながら、思わず私の心に浮かんだのは<あんなに心を砕いてくれたのに、どうして私には何一つさせてくれなかったの……>という恨む気持ちでした。しかし、娘さんから聞く、がんと向き合った彼女の10ヵ月を冷静に受け止めていくうちに、じつに多くの宿題を残してくれたことに気づかされました。

彼女らしい潔い生きざま

 当初は子宮頚がんの早期発見という判断だったのに、結果、腸への複数転移と「かなり性質(たち)の悪い種類のがん」と判明。主治医からは「抗がん剤が効かなければ、あとは何もできません」。ずっと付き添ったのは遠くに嫁いだ次女で、彼女がナースだったこともあって家族には高度なレベルの情報が包み隠さず告げられました。しかし「さすがに本人にそこまでは言えなかった」と苦しい家族の胸のうち。10月末の手術のあとも入院がつづき、正月に一時退院。ところが娘さんいわく「はしゃぎすぎと食べ過ぎで」腸の状態が急激に悪化して再入院。それから半年間の入院を余儀なくされ、「どうしても家に帰りたい」という本人の強い希望で6月初旬に退院。家に帰ってからの10日間ほどは、とても末期とは信じられないほどの小康状態。家族に囲まれた穏やかなときを過ごし、交代で付き添う家族一人ひとりともそれぞれに、じっくり、ゆっくり語り合う、人生最期の幸せなときを過ごせたようです。
 彼女が亡くなった半月後に届いた梅エキスのビンのラベルには「2009.6.6仕込み 2009.7.5仕上げ」と書かれています。そして、数枚の写真が添えられ、ベッドの上で大粒の青梅を両頬にはしゃぐ様子や、居間のベッドに横たわって家族総出の賑やかな仕込み作業を満足げな表情で眺め、指示をする過程が映し出されています。すっかり面影の変わってしまったSさんを眺めながら、思わず<よかったわネ……>。とくに二人の孫娘さんが真剣な表情で作業の主役を務めているスナップには、涙が溢れて止まりませんでした。
 ところが病魔は彼女を幸せのままにはしてくれず、突然の体調不良で6月13日に再入院。しかし病院としても成す術はなく、本人も「どこにいても同じ、家に帰りたい」と強く望み10日目に再び家に帰り、1週間後の6月29日、明け方に眠るように逝ったのだそうです。在宅医療を支えてくれたドクターにも「蘇生はしてくれるな」と本人が伝えてあり、「ほんとうに静かな、穏やかな最期でした」。そう語る娘さんの話のなかで強く印象に残ったのは、「病気になってからとても素直になり、可愛らしい人になった。さっさと悟って、最期は観音様みたいでした」という言葉。そのひとことで<ガンバリ屋のツッパリ屋だったけど、楽になってよかった……>と澱が消えました。
 彼女は元気だった頃から、毎年「旅立ちの準備」を更新していた人。入院してから更にその作業が具体的な指示となり、娘さんは「最後の最後まで強く、真っ直ぐで、わが母ながら、なんて凄い人なんだろうと感じるばかり……」と感嘆。果たして、私にそこまでできるだろうか……と思うと、なんて大きな宿題を残して逝ったことかと、改めて彼女の存在の大きさを胸に刻む思いです。
 Sさん、ほんとうにお疲れさま。ゆっくり休んでください。いつか、またネ! 合掌