辻本好子のうちでのこづち

No.126

(会報誌 2005年9月15日号 No.181 掲載)

私と乳がん㊵

治療中止を提案した主治医を説得して
“笑顔で饒舌”は悪い知らせの前置き?

 9月4日、さあ、いよいよ第5回目の点滴。今日の点滴を終えたら、残すはあと1回だけ。ほんの少しゴールが見えてきたような気がして、これまでとは違った、少し挑むような気持ちで病院に向かいました。
 この日も2時間以上待たされて、ようやく名前を呼ばれました。診察室に入って丸椅子に座ると、いきなり「4回済みましたね。よくがんばりましたねぇ」と、思いがけない主治医からの優しい言葉がかかりました。常識的に言えば、こうした言葉がけはとりたてて珍しくもありません。むしろ巷なら当たり前の会話だと思うのですが、医療現場でドクターから、しかも突然にかけられると妙に感動してしまうから不思議です。
 いつもだったら、診察室に入ると主治医はまだ前の患者さんのパソコンの画面に目をやったままです。それでも黙っていたら悪いとでも思うのか、画面を見たまま気のない声で「どうですか?」と迎えられます。そして、一方の患者である私もまた、的を射た返事であるのかどうか心もとないままに、「そうですねぇ、まあまあでしょうか……」など、じつにあいまいな返事をしたりします。そうこうしていると前の患者さんのカルテヘの書き込みが終わって、ようやく目と目を合わせて「ハイ、こんにちは」となり、向き合った会話が始まります。
 ところが、この日はちょっと違っていました。診察室に入ると、机の上に私の血液検査の結果表が置かれていました。そして、主治医は珍しく、私をにこやかに迎えてくれたのです。いつもは丸椅子に座ると早々に血液検査結果の説明が始まるのに、この日の主治医はまるで世間話でもするように妙に饒舌です。私が受けている「FEC」という化学療法の最新情報の話が始まりました。フランスで1990年から2000年までおこなわれた臨床試験の中間報告が最近出たとのことで、その細かな数値の話が続くのです。主治医は国内の研究班の一員でもあり、「日本では今年からスタートしたばかりの治療だけれど、できればEBM(標準的な治療)へもっていきたいと思っているんだ」と、以前にも聞いた話を再び熱く語ります。
 でも話の途中、手元の結果表に何度も目をやりながら、それでもなかなか本題に入ろうとしません。だんだん私の方がじれったくなってきて、「今日は、どうでした?」と結果表を覗き込むと、ようやく「ええっと、今日の血液検査の結果ですが、白血球が2600、好中球は1400でした。好中球が2000以上ないと点滴はできません。ということで、う〜ん、今日はやめておきましょう」。
 私にというより、主治医自身に言い聞かせているような言葉を聞いて、ようやく<そうかぁ、いままでの会話は、悪い知らせをするための前置きだったんだ>と気づきました。決してスマートでもない、むしろ無骨ともいえるような、そんな主治医の配慮に感謝する気持ちを覚えたのは、ずっとずっとあとのことです。

仕事を優先したい気持ちに支配され

 ともかく私は点滴の4〜5日あとには仕事の予定がぎっしりと詰まっているのです。それでなくても、抗がん剤治療を続けることで、仕事をキャンセルしたりスケジュールを再調整するなど、すでに十分すぎるほど事務所には迷惑を掛けています。これ以上、仕事に支障をきたすのは嫌だという気持ちがムクムクとわいてしまいました。主治医の配慮などなんのその、私はどうしても仕事を優先したい気持ちに支配されていたのです。
 主治医が危険を避けて出した判断だということは、もちろんわかっています。しかし、化学療法4回の経験を振り返ると、回を重ねるごとに体も慣れてきているようだし、自分なりにうまく対応する術が身についてきているという多少の自信もありました。患者のわがままで無理を言ってはいけないことはわかっています。患者の自己決定権を振りかざすようで、はばかる気持ちもありましたが、ここはどうしても譲る気持ちにはなれませんでした。
 しばらく迷った末、どうしても主治医を説得したい気持ちが勝り、話の順番としてまず私のおかれている状況を説明しました。主治医はじっと腕を組んだまま聞いていてくれました。そこで「だから、やっぱり予定が狂うのは困ります。大丈夫です。がんばりますから!」と、無理を承知で点滴して欲しいというお願いをしました。ただ、そのとき、内心では<がんばりますとは言ったけど、いったい何をがんばるんだろう?>と、妙に冷静な気分にもなっていました。
 とりあえず私の話に耳を傾けてくれていた主治医は、「う〜ん、これまでの蓄積がある分、免疫力低下の危険が大きいからなぁ」と、そのあともしばらく無言。そして、私としっかり向き合うと、「十分すぎるほどの注意が必要な状況ですよ。いいですか、出張先でも手洗いやうがいを今まで以上に励行すること。それから食べる物にも細心の注意をしてください。しっかり休養をとることが絶対条件です!」と厳しいお達しがあって、ようやく点滴が始まりました。
 しかし、まさか、あれほどの苦しみが待っていようとは、このときはまったく想像もできませんでした。