辻本好子のうちでのこづち

No.039

(会報誌 1998年3月15日号 No.91 掲載)

“自己決定”についてもっと議論しましょう!

 第二の意見を聞いたうえで、自分の医療を決める。セカンド・オピニオンにまつわる“あれこれ”が、いつも私のこころを虜(とりこ)にしている今日この頃。残念ながら、“上からの命令”がなければ、そんなに簡単に医療の制度や仕組みが変わるものとは思えません。
 けれども時代の流れや社会の要求(決して“欲求”ではなく)が大きく変わり始めているときだからこそ、「医療はこうあってほしい」とハッキリ唱え、医療消費者の私たちの手で社会の問題として仕立てあげて行くことが必要だと思います。医療費のムダや患者の負担を考えるうえからも、セカンド・オピニオンは、今日の医療のなかでどうしても解決すべき問題の一つと位置づけたいと思います。

試される成熟度

 さて、レントゲンやCT、MRIなどのフィルムの借り出しが、面と向かってドクターに願い出なくても、たとえば会計窓口の横の申請書に記入して所定の料金を払えば簡単に手に入るとします。そうして第二の意見を求めることが当然になったとき、自分かどうしたいかを決めるのは結局患者に返ってくる問題。
 複数の選択肢を目の前にしたそのとき、自分のことをほんとうに自分で決められるのかどうか。しかも、その決定がどんな内容であっても、家族など周辺の人たちがその人の自己決定をこころから支援できるのか。はたしてそこまで成熟しているのだろうかと考えてみても、私自身、心もとないような気がしています。

自己決定の支援とは

 先日、全国各地の病院で医者の卵(研修医)の指導にあたっているベテランのドクターや各県単位の医師会幹部ら約150人が集まった講習会で、患者の立場として発言する機会を得ました。単に医療側を批判するだけでなく、COMLの電話相談に届く患者や家族の声を代弁して「これからの医療はこうあってほしい」という患者側からの具体的な提案を医療現場に届けました。
 会場との質疑応答に移ったところで、多くの質問が私に集中しました。なかでも印象的(むしろ象徴的というべき?)だったのは、某県医師会の副会長を名乗る方からの「明らかに愚かな選択をしている患者の自己決定を支援する必要があるのか?」という質問でした。
 一方的に愚かな判断と決めつけてしまう姿勢そのものがパターナリズム……と言いたい思いを必死に飲み込んで、あくまでも私見と断ったうえで、「たとえ専門家の目に愚かと映ろうとも、それが患者自身のQOL(生活、いのちの質)を高めることもある。もちろん十分な話し合いののちに、それでも……と患者が選んだ選択なら、しっかり支えてほしいと思う」と答えました。
 そのとき私の胸のなかで、建前と本音が激しく葛藤していました。もし仮に自分の身に置いて考えてみれば、たとえば身近な人が厳しい苦痛がありながらも「一切の医療を受けない」と拒否したとき、ほんとうに冷静な気持ちでその人の自己決定を心底支援しきれるだろうか。とても難しい問題だナーと、つくづく感じさせられました。
 2月9日、東京高裁で「エホバの証人」の輸血問題について、あくまでも患者の自己決定を支援する判決が出されました。この問題を議論することが本題の目的ではありません。が、時代は確実に患者の自助努力、自己責任、はては自己決定を重視する方向に流れ始めています。セカンド・オピニオンを考えるうえで、「自己決定とは?」について、患者と医療者がもっともっと議論する必要があることを痛感させられました。