辻本好子のうちでのこづち

No.134

(会報誌 2006年5月15日号 No.189 掲載)

私と乳がん㊽

コミュニケーションのとれる放射線科医に出会えて
廊下を疾走する白衣の人の正体は?

 放射線科外来の診察室と照射するリニアック室は、50メートルほど離れています。以前から、その廊下を疾風のごとくわき目も振らず、全速力で何度も往復している人がいました。白衣を着たその人を見るたびに、<あの人、誰? 病院の廊下は走っちゃいけないんでしょ!>と、いつもいぶかしく思っていました。放射線科の診察室に初めて入ったとき、椅子に座っていたのは紛れもなく、いつも走っている人でした。私のもう一人の主治医、放射線科医のYドクターです。
 当時、私がかかっていた病院には、放射線治療を担当するドクターは一人しかいませんでした。放射線治療を必要とするのはがん患者ばかりでなく、他の疾患の患者もいて増加の一途をたどっています。しかも700床クラスの大病院ともなれば外来患者が常にひしめいているわけですから、放射線科医が一人しかいないというのは何ともお粗末な診療体制。産婦人科や小児科の医師不足はマスコミにも登場する話題ですが、放射線腫瘍医もご他聞にもれず人手不足が実態で、やはり廊下を走るしかないのかもしれません。

出会えてよかったと思える放射線科主治医

 Yドクターとしては、すでにマーキング(照射位置の目印を直接肌に描き込むこと)のときに私という患者と出会っているわけです。しかもそれまで数回の照射のときも、息を切らせて毎回チェックに来ていたのですから、この患者とは面識ができていると思っておられるのも不思議ではありません。しかし、私にとっては今までは無言で会話もなく、少なくとも言葉を交わすのはそのときが初めてなのです。やはり初対面なら初対面なりの挨拶というものがあってしかるべき、と思うのですがいきなり触診が始まってしまいました。しかも思いがけない冷たい指先が、突然、胸や首に触れたのですからビックリ。思わず「おおっ、冷たい!」と声をあげてしまいました。すると「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、これからは秀吉のように暖めておきましょうネ」と予想外の優しい言葉。これが放射線科主治医との初対面の会話です。
 よく電話相談に「患者が感じたままを正直に反応したら、ドクターが嫌な顔をして微妙な空気が流れた」という話が届きます。しかし、思わず私が口走ってしまった率直かつ無遠慮な言葉をYドクターは実に柔かく受け止めてくれたのです。ホッとすると同時に、<ああ、この人に出会えてよかった>と暖かい気持ちになりました。
 その後の診察中にもポケットベルが作動し、リニアック室から準備が整ったといったたぐいの連絡がしょっちゅう入っていました。それでも診察中はしっかり患者と向き合い、丁寧な触診と説明、さらにはコミュニケーションを努力するドクターなのです。そうして診察が終わるやいなや疾風のごとくダッシュして……と、いつもの風景になるわけです。
 放射線照射はじつに厳密な作業で、数ミリずれるだけでも皮膚組織に強い影響が及びます。少しでも重なって照射すれば、火傷のような痕を残しかねないのだそうです。だからマーキングがあれほど慎重かつ丁寧におこなわれ、マーカーで書き込んだラインを「絶対に消さないように!」と厳しいお達しがあったわけです。ずいぶん治療の回数を重ねた頃に、「なぜ走っているのか?」と事情を尋ねたときに上記の話を聞き、<ああ、だからあんなに……>と、疑問に思っていたあれこれがすっきり解決、ようやく納得に至りました。
 結局、毎日照射に通い、予定の25回(途中に祝日で照射できない日もあって)に加え計算上の線量が足らないということで1回分の追加となり、最終日は12月30日でした。
 そうして私の激動の2002年が過ぎ去りました。

脱帽するほどの脱毛

 ここで、ちょっと無駄話を……。
抗がん剤治療の副作用で脱毛していた辻本好子 2002年6月から9月までに受けた、3週ごと6クールの抗がん剤治療の副作用で脱毛していた当時の私です。もちろん現在は、元通りになっています。それにしても「見事!」と、まさに脱帽するしかありません。正直、あのころはシャワーを浴びたり、洗面所の鏡に映る自分を直視したりすることも辛く、街を歩けば奇異な目で見られているような被害者意識で落ち込み、いつもうつむき加減にしか歩けない。いまでも写真を見るたびに、当時の惨めな気持ちがよみがえります。
 しかし、そんな気持ちになるたびに、<十分な説明を受け、納得して、自分で選んだ治療じゃないか!>と自分に語りかけ、<自己決定したことには当然に引き受けざるを得ない自己責任が伴うんだ>と自らをいさめ、インフォームド・コンセントの意味の重さを身をもって受け止める貴重な体験にもなっています。
 落ち込んだり、切なくなったりしたときにいつもイメージしていたことは、妖精のような小悪魔が未だ潜んでいるかもしれない私のがん細胞を一生懸命やっつけている姿。いたずら好きな腕白坊主のような彼らは、ときどき間違って良い細胞まで傷つけてしまうこともある……。鏡に向かって小悪魔たちに「がんばれ、がんばれ!」と声援を送り、自分自身をも励ましていました。
 COMLの活動15年目にして罹患した乳がんは、まさに神様からのプレゼントでした。それまでの講演で電話相談に届く患者や家族の「なまの声」を代弁していただけの私でしたが、ほんの少し自分の体験を加えて語ることで、聴き手の気持ちがグッと近くなってくれるような気がするのです。そんな話をしたら、「芸域が広がったネ」と長男が冗談交じりに言った軽口も、当時の私の気持ちを楽にしてくれたものです。

※これは2002年の体験です。