辻本好子のうちでのこづち

No.116

(会報誌 2004年11月15日号 No.171 掲載)

私と乳がん㉚

かつらの着用に大きな葛藤
これは私じゃない!!

 抗がん剤の副作用による脱毛は、額の生え際や襟足に柔らかな毛がしょぼしょぼと残り、それがかえって哀れさを一層引き立てます。でもその一方で、こんなに叩きのめされても、それでもなお健気に残ってくれたことを思うといとおしくもなり、<よく頑張ってるよネ>と鏡に映る自分に語り掛けたい気分でした。
 翌日は名城大学の講義があって、名古屋まで新幹線に乗らねばなりません。しばらくかつらを手にしたまま鏡の前で迷っていたのですが、思い切ってかぶってみました。するとそこには、以前とはかなり雰囲気の違う、けれどもとくに人の目に奇異と映ることはないだろうと思える「私」が映っています。しかし、即座に<ううん、違う!! これは私じゃない!>と、思わずあわててかつらを取ってしまいました。放り投げてしまいたい気持ち、それを押し留めようとする気持ちが葛藤するなかで、それでもとまた思い直してみる……。そんなことを何度も繰り返しながら、鏡のなかにいる二人の自分を受け入れるのに、かなりの時間を要しました。
 <別に悪いことをしたわけでもない、だったら隠さなくたっていいんだヨ。丸坊主のまま、胸を張って堂々と外出すればいいじゃない!>
 <う〜ん、でもね。いくら本人は納得づくだとしても、はた迷惑ってことだってあるんじゃない?>
 あくまでもあるがままをさらけ出せばいいと主張する私と、違和感をぬぐいきれないまでも現実を受け入れようとするもう一人の私。譲り合わないままあっちへ行ったり、こっちへ行ったり。どうしてこんなに迷うんだろう……と我ながら情けないような気持ち。かつらを手にしたまま、いつまでも洗面所の鏡の前から離れられることができませんでした。

かつら購入も逡巡のなかで

 洗面所の鏡の前で逡巡する以前、デパートでもずいぶん迷いました。もともとがストレートのショートヘア。複数のデパートを回って、余り雰囲気の変わらないかつらを探そうとしたのですが、なかなか見つかりません。ストレートとなるとロングしかありません。そもそも一般的にかつらを求めるのは変身願望からで、いつもと違う自分を演出したいというお洒落が目的だろうと思います。それだけに抗がん剤治療の副作用に苦しむ人の心情をおもんぱかった商品開発など、なされているはずもありません。
 店員さんには申しわけないと思いつつ、納得できるまで何度もあれこれ試してみたのですが、どれもこれもゆるやかなカールがかかっていたりして、華やかで優雅な雰囲気。脱毛という状況さえなければ、プレゼントしてあげると言われてもご辞退申しあげるだろうし、大金を積まれても自分では買いたいとも思わない品物。人毛となると16万円もするのですが、副作用のためであってももちろん医療保険はききません。たまたま掛けていた生命保険から一時金が出ていたので、清水の舞台から飛び降りることができたのです。
 <そうだ、この際、ロングのかつらで皆をアッと驚かせてやろうかしら>などと、多少のいたずら心もうごめきましたが、結局は無難なショートヘアのかつらに落ち着きました。楽しいはずのショッピングなのに少しも心弾まず、高価な買い物をしたという満足感のひとかけらもありません。しかし抗がん剤治療を選択し、しかも治療中に外出をしようと考える私にとっては“必須アイテム”だったのです。

緊張を強いられた“かつら外出”

 翌日、朝が早いだけに迷っている暇はありません。昨夜のうちに<ともかく明日はかつらをかぶるゾ!>と心に決めていました。ところが、かつらをかぶって出掛けたものの、街を歩いているときも乗り物のなかでも「あの人なんだかヘンね」と囁かれているような、ジロジロ見られているような視線を感じる気がして、一日中緊張が続きました。もちろん講義のなかで学生に脱毛したことを打ち明け、今日はかつらなんだと正直に話しました。そして、昨夜経験した、情けないほど迷った気持ちを聞いてもらいました。薬学部の学生だけに、みんな真剣な表情で聞き入ってくれました。
 帰りの新幹線で席に座ったと同時にどっと疲れが出たのか、新大阪までグッスリ眠り込んでしまいました。そして、大阪に戻ったその足で病院へ駆けつけました。遅い午後の予約ということで、心エコーの検査が入っていたのです。私が受けると決めた化学療法には、脱毛だけでなく「心臓への負担が大きい」という副作用もあります。ほんとうは抗がん剤の治療が始まる前に心エコー検査を受ける必要があったのですが、どうにも日程が合わずこの日にしてもらっていました。外来診察はなく、心エコーの検査のみ。ほとんど人気のない検査室。能面のように無表情な検査技師の対応に、いつもの私ならきっと不満を感じているはずなのに、緊張で疲れきったこの日は、何の言葉も交わさずにすむことでどんなに救われたか。患者とは「かくもワガママな存在なり」を改めて実感させられる思いでした。