辻本好子のうちでのこづち

No.034

(会報誌 1997年10月15日号 No.86 掲載)

8年目からのステップアップのために 〜2〜

 COML8年目の活動がどうあればいいかを考える手がかりとして、先月号でロス地震の被災者救援で活動したNPO(非営利団体)「アドボカシーグループ」を紹介しました。患者の自立の応援団という抽象的支援にとどまってきたこれまでの電話相談の対応を今後どういう方向にもって行くのか、さらに具体的なヒントを探してみたいと思います。

限界性の提示と自己決定の支援

 アドボカシー活動の精神は、サービスを受ける人々への必要なサービスを確保すること、権利が守られることを保証すること。そして、サービスを受ける人々が価値観を明確にすること、その価値観にもっとも適した選択ができることを支援することです。
 やがて3年が過ぎようとしている阪神大震災。思い起こせばあのときも、行政支援や市民からの援助物資をどう公平に配分するかに、人々の興味や関心が集まりました。ただ当時は「必要な人に必要なモノを」というよりきめ細かな仲介者の役割、すなわちアドボカシー精神が日本社会そのものにはありませんでしたから、弁当が捨てられ、衣類や薬も山積みにされたりしていました。
 ところでアドボカシーの役割を担う権利擁護の立場では常に心がけるべきことが二つあります。一つは早い段階で自分たちの「限界性」をはっきり示すこと。つぎに複数の選択肢を示して、自分で選んで決めるといういわゆる「自己決定権」を支援する。つまり依存や期待されても「できないこともある」と伝え、提供者は希望の実現の手伝いをするだけで、あくまでも“その人”が権利の主体であることを自覚させようとする姿勢なのでしょう。

個別性を認めつつ希望の実現を支える

 1986年、アメリカでは「精神障害者に対する保護および擁護」という精神保健領域における患者権利擁護制度(ペイシャント・アドボカシー:PA)が制定されました。精神保健サービスを受ける人のために、十分に訓練されたスタッフが権利擁護を提供する公的制度です。ちなみに1986年度には国の予算1000万ドルが計上され、各州に約12万5000ドルずつ配分されています。権利を擁護するスタッフが自らの価値観や判断を持ち込まず、受益者(この場合は精神障害者)の希望の実現を目指すことを目的とする自己決定が大原則です。
 保護主義(医療でいうパターナリズム:父権性温情主義)は、本人以外の人が自らの価値観を押しつけ本人に代わって価値判断をしてしまうことです。一方権利擁護は、本人の期待(指示)そのものに従って行動し、不満の解消をめざします。単に患者を守ってあげるだけでなく、そもそも人間は多様な存在で一人ひとり違っていることを当たり前のこととして、その人自身がどうしたいかの“希望の実現”を援助することです。
 なお精神保健サービスのPAの場合、告訴、権利侵害に関する調査、苦情処理システム、権利擁護ネットワーキング、立法行為、行政決定、講演会開催、権利の承認の監視、研修、コンサルテーション、教育、会議への参加などの援助があげられます(それぞれの援助内容についてさらに詳しく解説するスペースがありませんので省きます)。
 ロス地震で大活躍したアドボカシーの精神は、じつはすでに1970年代のアメリカの看護領域でも唱えられていたようです。ナースの倫理的、社会的責任が、患者の利益や権利を擁護することという考えですが、実際にはいまだに根づくまでに至ってはいないようです。ただナーシングアドボカシーの主張は、ナースの地位向上の手段のようでもあり、その裏側からは患者のために“してあげる”という姿が見え隠れしているような気もしてなりません。それでもやっぱり「さすがに人権先進国!」と感心させられます。もちろんアメリカにも多くの困難が横たわっているのでしょうが、どうしても私にはCOMLのつぎの活動のヒントが潜んでいるような気がしてならないのです。

時代の流れに合った新しい援助のあり方

 日本が少子高齢社会へ向かってひた走り、情報公開や規制緩和という時代背景も目まぐるしく移り変わろうとしている今。これまで保護政策のもとで甘えてきた人々が突然、自助努力、自己責任を全うする心構えを要求されても、すぐに対応できるはずはありません。自分が「どうしたいのか、だからどうして欲しいのか」を語れる人はほんの少数です。ただ、それでも周辺状況の変化から、どうやら時代の流れの行く先が決して“甘いものではないらしい”ことと、その流れは“止めようのないものらしい”ことを感覚として受け止め、「取り残されたら大変!」と、不安と焦燥にかられ始めている人が増えているというのが現状です。
 自立することばかりを迫られて、しかも情報らしきものはあってもどうしていいのかわからず右往左往してしまう。そんなときに道先案内がいたり、適切な情報を提供してくれたり、複数の選択肢や知恵や工夫などを示して、一緒に考えてくれるような身近な存在があったら、人はどれほど安心できるでしょうか。まさしく新しい援助のあり方こそ、アドボカシー精神そのものと思えてなりません。

COMLの電話相談の現状は……

 厚生省が21世紀の医療ビジョンを打ち立てるなかで、この先もつぎつぎと患者にとって厳しい制度改革を推し進めようとしています。医療事情が激変すれば当然に、COMLへの電話相談の内容も具体的かつ個別的にエスカレートして行くに違いないと思います。じつは最近の電話相談にも、単なる愚痴にとどまらず具体的な情報を求めてくることが目立っています。
 ただ、それでも、自分の思うようにならないことの愚痴。説明が受けられない、あっても理解できないことの不平や不満。さらには自分のことなのに自分で決められない、つまり自己決定権が踏みにじられたという無意識の憤りから生じる不信感。そして、限りない無知と孤独と苦痛を抱えた不安の数々。これらすべてが渾然一体。ときには相談者自身が何か問題なのかわからなかったり、どうしてもわがままとしか思えないような訴えも少なくありません。行きつ戻りつの混沌のままながら、それでも“その人”のモノの感じ方や考え方や問題解決の方向性を否定せず、ただひたすらに耳を傾けます。そして、大きな期待を抱かせないため、あるいは現実を見極めていただくために、なるべく早い段階にCOMLの「できること」「できないこと」をはっきりと示します。

 「できないこと」で言えば、まずは診断についての意見や感想を述べること。そして、病院側との直接交渉、病院やドクターの紹介などです。一方「できること」としては、手元にある資料の教科書レベルの医療情報をお知らせしたり、同病の患者会などの紹介。また目まぐるしく変化する制度や仕組みをわかりやすく解説することなども最近は増えています。そして、さらには「COMLに相談したそのままの言葉で」主治医や担当ナースに遠慮なく掛け合ってみることを提案します。そんな勇気を待っていただくためのこころの応援団でいたいというCOMLからのメッセージとして、さいごに必ず「いつでも電話してください」という言葉を添えさせていただきます。

 こうした患者や家族の本音のなかで、これまでCOMLに期待された要求をまとめてみれば「いい病院、いいドクターを紹介して欲しい」「専門用語や説明が理解できない」「他の治療方法を探したい」「セカンドオピニオンを求めたい」「実際におこなわれた医療内容を知りたい」「こんなはずじゃなかった、医者に謝ってもらいたい」などです。こうした具体的ニーズに今後は「どう対応するか?」。それについては、また次号で。