辻本好子のうちでのこづち

No.124

(会報誌 2005年7月15日号 No.179 掲載)

私と乳がん㊳

思い出づくり——いつか訪れる死の準備
この充実感を死の床でも味わいたい

 不謹慎なことかもしれませんが……。フッと<乳がんになってヨカッタ!>と思ってしまった瞬間があります。
 手術後、不十分ながら意識が戻って回復室から病室に運ばれたとき、長男夫婦と次男、そして山口が迎えてくれました。そのとき、<ああ、これが“安堵”ということなんだぁ……>と心の底からホッとしたこと。そして、もうひとつ忘れられないことがあります。
 術後の極度の貧血状態、さらには長時間、手術台の上で真っ裸だったこともあってか、病室に戻ったときには耐えられないような寒さに襲われていました。おもわず「寒い…」と小さな声でつぶやいた瞬間、ベッドの両脇から長男と次男が同時に私の冷え切った手を握って暖めてくれました。あのときのぬくもりは、母親としての最高に充たされた気持ちだったと、いまもときどき思い出します。<大きくなったなぁ〜><やさしい子に育ってくれてヨカッタ〜><ああ、恕(ゆる)されているんだぁ〜>と感じた“最高の幸せ”を実感したそのときです。
 そして、それからの3日間。ひがな一日、次男が病室にいてくれて、ゆったりと充たされた時間を共有してくれました。特段やることもなく、暇に明かして久しぶりのおしゃべりを楽しみました。ベッドに横たわって目を閉じ、珍しくも聴き手に徹している私に、最近読んだ本の感想や彼を取り巻くユニークな人間模様などをポツリポツリと語ってくれました。なかでも私の心にヒタヒタと沁みこんできたのが子どもの頃の思い出の数々。私はすっかり忘れてしまっているような小さなエピソードを懐かしそうに語る、その言葉の一つひとつから幼い彼の目に映っていた「当時の私」が浮かんできたのです。
 若かった頃のがむしゃらな母親、そして時を経てCOMLに埋没する母親の後ろ姿。そして、それがいまの彼にどれほどの影響を与えているかまで、ときに厳しく、痛烈な批判も交えながら冷静かつ客観的に語ってくれました。
 ……そのときに思ったのです。
 いつか必ず訪れる死の床で、もう一度この充実感を味わいたい、と。事故に遭うような突然の死でない限り、入院か自宅かどこでそのときを迎えることになるのかはわからないけれど、死ぬ前にもう一度、こんなゆったりした時間を息子たちと過ごしたいと強く思いました。残され、与えられたこれからの時間のなかで、そのときのために語り尽くせないほどの素敵な思い出をいっぱい用意しよう! 溢れるほど、許される限りの思い出を、一杯いっぱい創っておこうと心に誓いました。次男を「かばん持ち」と理由づけて抗がん剤治療渦中に沖縄の旅に誘ったのは、つまりそうした死の準備の一つでもあったというわけです。

夢と希望を支え続けてくれた二人の息子

 そして、手を握られたときに「恕(ゆる)されている」と目頭が無くなったそのわけは……。
 15年前、COMLを立ちあげる決心をして大阪に生きる道を定めた当時、家族は名古屋に住んでいました。紆余曲折を経た8年後、かつてのパートナーとは別々の人生を歩むという結論に達しました。その間ももちろん、そして、その後も、何より大切にしてきたのは二人の息子たちとの関係でした。
 多くの人々に支えられたCOMLが順調に育っていけばいくほど、24時間では足らなくなり、一つしかない私の体が二つに裂けるような気持ちになっていきました。そんな私を二人の息子たちは、冷静かつ厳しく、そして、優しく見守ってくれていました。決して、そのときどきの気持ちを多くの言葉で伝えてくれたわけではありません。しかし、それでも彼らが大人になっていく過程で、母親の「夢と希望」を確かに支えてくれていたのです。
 「子どもを捨ててまで、君がやらなきゃいけないことか」と責められたとき、そばにいた長男が「出たくない人を押し出すことが難しいように、出たい人を押し込めることも難しい」といった意味のことばをつぶやいて、父親の怒りの行き先を奪ったことがありました。そして、「僕たちは、捨てられたなんて思ってないヨ。送り出してあげてるんだから」とも。それからの私は、それでも、やっぱり、いつも心のなかで「ごめんね、ありがとう」とつぶやき続けて生きてきました。
 だから、二人の手のぬくもりを感じたとき、そこには何の言葉もなかったのですが、心底、<ああ、恕(ゆる)されているんだぁ〜>と嬉しくてたまらなかったのです。

“私の仕事”を見ておいてほしい

 独り身でいた頃の長男には、COMLが目指している(そして私の)夢や希望を少しでも理解して欲しいと、年に一度のフォーラムにスタッフとして借り出し、大切な仲間たちと会ってもらったりもしました。しかし、ずっと長く学生を楽しんでいた次男には、そうした機会がとくにありませんでした。たまたま沖縄では、病院内における研修としての医療者向け講演と病院主催の地域の人たちへの情報発信でもある市民向け講演の二つが企画されていました。そこで私が何を語るか、つまり私の仕事を次男に「見ておいてほしい」と思ったのです。
 健康だけが取り柄のような次男が医療問題に興味・関心があるはずもなく、それだけに「聴いてほしい」などと無理な要求はせず、ともかく仕事をする母親の姿を目に焼き付けておいて欲しかった、ただそれだけの願いでした。そして、沖縄の友達に会ってもらうことで、彼の知らない母親を少しでも知っておいて欲しいと思ったのです。ホスピタリティ溢れる友人たちの細やかな配慮に感動し、おおらかなで底抜けに明るい人情に触発を受け、豊かな沖縄の自然と奥深い文化に触れる喜びを満喫した次男。密かな私の企ても受け止めながら、楽しい思い出のページを一緒に創る旅になりました。